街の名所案内
幸手市内にある名所を写真と解説でご紹介します。写真をクリックすると詳細説明が出ます。
- 幸手城跡
約六百年前の室町時代前期に古河公方の重臣であった一色氏が築いた幸手城跡です。
幸手城については資料が少ないので、はっきりした場所は特定できませんが、現在の幸手駅とその周辺が幸手城の跡だと言われています。
幸手城は中世の城なので、城郭や天守閣をもつような城ではなく、「陣屋」と呼んだ方がふさわしい規模だったようです。
幸手は、北と西を利根川の旧河川で囲まれた要害の地で、城は自然堤防か河畔砂丘上に位置していたと思われます。
残念ながら幸手城の遺構は残っていませんが、支城である天神島城に堀の跡と土塁が残っています。
また「陣屋道」「城山耕地」「馬場跡」などの地名も残っています。
幸手城は一色氏の知行替えに伴い約四百年前に消滅しました。
一色氏は約二百年間幸手城を支配していたことになります。
- 一色稲荷神社
一色稲荷神社は「正一位一色稲荷大明神」とも称されます。
「正一位(しょういちい)」とは、神社でいう最高の位(くらい)で、稲荷神社では京都の伏見稲荷神社が正一位でした。
(注)後鳥羽天皇が伏見稲荷行幸の際、「分社も正一位としてもいい」旨勅許されたので、勧請を受けた全国の稲荷神社も「正一位」を名乗るようになった。
一色稲荷神社は、幸手城跡に位置し、「陣屋稲荷」とも呼ばれています。幸手一色氏が陣屋の中に建立したものです。
城跡と思われる位置から巽(たつみ)の方向(南東)に祀られています。
一色稲荷神社は現在、明治二年に作成された稲荷神像が御神体として祀られ、「一色稲荷神社を守る会」によって管理されています。 - 明治天皇行在所跡
天皇が外出することを「行幸(ぎょうこう)」。行先が二箇所以上になることを「巡幸(じゅんこう)」といいます。また、天皇が臨時に滞在する場所は「行在所(あんざいしょ)」と呼ばれます。
明治天皇は幸手に三回来て行在所としています。
第一回目(明治九年六月の奥羽巡幸)
第二回目(明治十四年の山形秋田北海道視察)
第三回目(明治二十九年の鷲宮で行われた近衛師団(このえしだん)特別大演習視察)
記念碑の揮毫は東郷平八郎。
詳細は現地ガイドにお尋ねください。 - 志手橋(しでばし)
江戸方面から志手橋を渡ると幸手宿です。
志手橋は幸手宿と上高野の境を流れる倉松川(旧志手川)にかかっています。
日光道中分間延絵図を見ると、志手橋のかかるあたりは川幅が広く、志手沼と呼ばれていました。
武蔵国郡村誌(明治九年調査)には、長さ十七間(三十・六メートル)幅三間(五・四メートル)と記録されています。
川魚がたくさん捕れたので、志手沼のまわりには川魚料理屋やうなぎ屋が多く繁盛していました。
志手橋には、古くから上高野に伝わる、静御前の伝説があります。 - 神明神社
神明神社は、右馬之助町(助町)の鎮守で、宝暦五年(一七五五)の設立と言われ、農耕の神様、伊勢皇大神宮の分霊を祀っています。
境内社には眼病に効く「たにし不動」として有名な「菅谷不動尊」(新潟県新発田市の菅谷寺)、開運厄除け・商売繁盛など様々なご利益があるとされる「成田不動尊」(千葉県成田市の新勝寺)、「稲荷大明神、聖徳太子堂、水神宮」を合祀した社(やしろ)と、例年6月末に町内夏祭りの魁となる神輿渡御(みこしとぎょ)が行なわれる「今宮大杉神社」があります。 - 高札場跡
江戸時代、幕府から御法度(ごはっと)、掟書(おきてがき)、犯罪人の罪状などを一般庶民に通達する方法として、板に書き示して街道沿いの宿場や橋のたもと、村の名主宅前など、人目に付きやすい場所に掲げたものを「高札」といい、これを掲げた場所を「高札場」といいました。
また宿場町では隣の宿場までの人馬の駄賃や宿代が書かれた高札もありました。
幸手宿では江戸から幸手宿に入った所(神明神社の入口の左側)に立てられていました。 - 岸本家住宅主屋
岸本家住宅は、大正時代まで醤油醸造業を営んできた同家の自宅です。「上野屋岸本商店」と言いました。土蔵造り二階建てで江戸時代末期に建てられました。
岸本家の醤油は明治三十三年(一九〇〇)パリ万博で銅賞を獲得し、一躍大人気店となりましたが、残念ながら大正十二年(一九二三)の関東大震災で醸造所等が壊滅的な被害を受け廃業しました。
岸本家の主屋は現代に残っており、曳家で現在の位置に移されました。
※ 平成二十一年(二〇〇九)にこの主屋が国登録有形文化財に指定されて保存・活用されることになりました。 - 朝萬(あさよろず)
「朝萬」は幸手宿の旅籠二十七軒のうち唯一現存している旅籠で現在も営業中です。
創業は二百年前で、先祖は越谷出身の萬屋久兵衛です。息子兄弟が「萬」の屋号を使用し。今でも残るのは次男の「朝萬」のみです。(長男七萬・次男朝萬・三男角萬・四男新萬)
明治天皇に同行した宮様や侍従長、伊藤博文、板垣退助、大久保利通等の宿札が残り玄関ホールに飾られています。
朝萬の名は三遊亭円朝の旅日記や弥次喜多道中記に登場し、エミール・ギメ(仏旅行家・美術収集家)著「東京日光散策」の挿絵にも使われています。 - 永文商店(えいぶんしょうてん)
明治三十六年(一九〇三)永島文太郎が創業しました。屋号「永文」で現在は酒販売業ですが、当初は魚屋でした。
現在の建物は関東大震災後竣工したものです。
宿場町特有の間口が狭く奥行きが長い家造りのため、奥の倉庫の荷物を店内に運ぶためにトロッコを使って運んでいます。長さ七十メートルあります(現在は途中で切れていますが、元はS状に曲がって奥の倉庫まで繋がっていました)。
女子のみで働いていたので、これを回収されたら商売にならないとして、戦時中の金属回収を免れました。 - 問屋場跡(といやばあと)
問屋場とは幕府が通信網・交通網を整備するため、宿場の税金を免除し、その見返りとして宿場に人馬を用意させたものです。
問屋場の管理は、幸手宿の四つの町の名主(中村・知久・野村・荒川)が一日交代で行いました。
問屋場の仕事は次の通りです。
①人馬継立
幕府の公用旅行者や大名などの朱印状を改め、 荷物を次の宿場まで運搬する。そのために、人足二十五名、馬二十五匹を常備し、不足する場合は助郷制度を利用する。
②継飛脚
幕府公用の書状等の通信
③大名の宿泊の手配
④もめごとの処理 - 本陣跡
本陣は、天皇の勅使や公家、大名、公用で旅をする幕府役人などが宿泊する施設で、一般の旅籠屋とは異なり、苗字帯刀が許され、門や玄関、上段の間などを設けることができました。
本陣職は土地の旧家など由緒正しい家が命じられ、幕府公認の大旅館のような役割を果たしていました。
幸手宿の本陣は代々知久家が務めていました。 - 豪商長嶋屋
幸手宿は日光街道と権現堂川の流通によって商業が発展し、豊かな商人が多く、「幸手に行ったらなんでも買える」「奈良屋、長嶋、伊勢治がなけりゃ幸手はさぞかし淋しかろ」「箒はいらぬ店の番頭の裾で掃く」と言われたほどでした。
その商人の代表として呉服商長嶋屋(姓は青木)がありました。
呉服を中心にいろいろな商売を手掛け、日光街道でも屈指の豪商で資産家でした。また多くの宅地と農地を持った大地主でもありました。 - 浅間神社
浅間神社は、富士山に対する信仰の神社です。
富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(浅間神)、または浅間神を記紀神話に現れる木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と見てこれを祀る神社です。
幸手の浅間神社は創建年は不明ですが、長嶋屋の第九代目当主の青木善六(担)が再建したものです。 - 聖福寺
聖福寺は、寺号を菩提山東皋院聖福寺と称する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来で、「しんてら」とも呼ばれています。
歴代将軍が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用し、入口には菊の紋章の入った勅使門(唐門)があります。
唐破風の四脚門が特徴で、将軍や日光例幣使が通るとき以外は門の扉は開けなかったそうです。 - 幸宮神社(さちのみやじんじゃ)
幸宮神社は約四百年の歴史を持ち、古くは「八幡香取社」と称し信仰されてきましたが、、明治四十二年(一九〇九)に神社の合祀が行われたのを機会に、大正三年(一九一四)幸手町の総鎮守となり幸宮神社と名を改めました。
拝殿に、江戸時代の絵師宗文(そうぶん)の作である絵馬が一対奉納されています。 - 権現堂堤
権現堂堤は、天正四年(一五七六)頃に後北条氏により築かれたといわれています。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により部分的に作られていったものが後につながり、権現堂堤になったとされています。 - 順礼の碑(順礼供養の碑)
昭和十一年(1936)、権現堂川用水路普通水利組合が建立した供養塔です。
表面に順礼親子の図、裏面に「治水犠牲者人柱順礼供養之碑」とあります。
この順礼図を描いた画家の結城素明は、東京美術学校の教授として東山魁夷らを育てた人物です。
(市指定文化財)
※巡礼悲話は人身御供に関する物語です。現地ガイドコースでお聞きください。